2011年7月31日日曜日

頂き物とお裾分けで十分

夏野菜万盛りだ。キュウリ、茄子、ゴーヤ、モロヘイヤ、トマトにミニトマト、ツルムラサキ‥毎年この時期になるとご近所から大量の野菜を頂く。去年は単身だったこともあり男やもめを気遣ってくれたのか、ご近所のおばさまたちが代わる代わる「収穫物」を届けてくれた。自分の菜園で獲れたものだったり到来物だったりするのだが、これがとても嬉しい。お向かいさんは週末しか来ないのでキュウリで良かったら大きくなりすぎる前に勝手にもぎ取ってどうぞ、だなんて言ってくる。お返しに、と出張帰りにおみやげなんかを持っていこうものならさらに倍返しなのでは?というくらいに野菜を頂く。品種によってそれぞれ収穫の時期というものがあるので、もらうときはキュウリばっかりもらう羽目になるものの、酢の物にしたり、浅漬けにしたり、と夏の食卓が賑やかになってほんとに幸せだ。後日「いかがでした?」と聞かれることもあるし、さっさと食べないとせっかくの鮮度も台無しなのでせっせと料理に使うのだが、限界もあって食べきれないという嬉しい悲鳴まで上げる始末。今日はT翁のご自宅の改修の相談にでかけたところ大量の茄子(写真後方に写っている量の3倍はある)を頂いた。おまけに今朝漬けたばっかりの茄子の漬け物とその場で獲れたアイコ(ミニトマト)まで。先日はウチの裏庭にオオバを見つけたりと、ほんとにここ最近野菜を買ってない。

閑話休題。
究極的な個人主義とそれを支える資本主義経済が行き渡り、あらゆるものがサービスとして提供され都市で一人で生活できる環境が整った結果というかなれの果てというか、65歳以上の者のいる世帯のうちの単独世帯、つまりいわゆる独居老人世帯がなんと410万世帯、じつに全世帯数の22.4%にのぼる(厚生労働省平成18年国民生活基礎調査の概況)。要因は他にもあると思うが、要するに一人で買い物に行きあれこれ買ってもちろん野菜も買って一人で帰って一人で食事を作り一人で‥ということで生きてゆける現代は一面ではとても自由で豊かな状態と言えるが、一方で他者との交流という意味では絶望的に貧しいと言わざるを得ない。内田樹が「贈与と返礼のサイクルが順調に機能している限り、僕たちは人間的な生活を送ることができる。」と言うように、本当の意味での豊かな暮らしは、貨幣による品物やサービスの交換の上にではなく、無償の贈与とそれに対する返礼というかたちのコミュニケーションなしでは成り立たないのだと思う。そうしたことがご近所さんとのお付き合いの中で実感として感じられること、そのことそのものがほんとうに幸せなことだと思う。

まあ、それに伴っておじいさんのお茶のみ話のお相手をしたり労働奉仕をしたりと、休日が半分台無しになったりすることもあるにはあるのだけれど、写真の野菜が全部頂き物だと思うとやっぱりエエとこに暮らしてるなぁと感謝なのです。

2011年7月24日日曜日

漆の話

一般に「乾く」とは言うが、漆の場合厳密には主成分であるウルシオールが酸化重合反応を繰り返すことによって硬化する際に一定の温度と湿度が必要になる(つま り化学反応なのです)。特に湿度はおよそ70%以上ないと反応が進まないので固まらない=乾かないということになる。なので、乾燥しがちな冬場はせっせと加湿しないとうまく乾かない。ところが皮肉なことに、鮮やかな発色を求めると、少し低めの湿度でゆっくり乾かす必要があるだが、これがなかなか悩ましい。

上塗りは全行程の終盤、つまり搬入とか締め切りとかがチラついてきて焦り始める時期にやってくる。綺麗な発色にしたいからゆっくり(4-5日かけて)乾かしたいところだが、日が足りない‥というジレンマに陥るのだ。

でもよっぽど慌てて乾かしたりしない限り、実は乾いた直後の色目はあんまり問題ではない。というのも、色漆の発色は乾燥直後がもっとも彩度が低くて、時間とともに徐々に本来の発色にもどってゆく。この「もどり」の変化の度合いが最初の1-2週間が激しくて、その後何年もかけてだんだん鮮やかになってくる。骨董の朱漆の器がびっくりするほど鮮やかなことがある。まあ、「透けてくる」なんて言い方もするが漆そのものの透明度が上がっていくのである、年月とともに。一方、鉱物系の顔料はほとんど退色しないのでどんどん鮮やかになってくるという仕組み。なので漆器は長く持っているとだんだん「イイ感じ」になっていく、という意外と知られていない事実。10年前の自分の作品もびっくりするくらい鮮やかな色になっていて驚くことがある。

工芸の仕事は漆に限らず、素材との正面からの付き合いなのだとつくづく思う。温度や湿度、つまり天気を気にかけながら、一日の段取りを考え、昨日の結果を評価して、明日の仕事を準備する。まさにCraft=Lifeだなと。

2011年7月14日木曜日

すこしの事にも先達はあらまほしき事なり

写真は先日のブログのT翁が作ってくれた箒だ。一緒に山に入った際に山道を軽トラを運転していたと思ったら突然停まり、おもむろに藪に分け入って鉈でなにやらバッサバッサと刈りだした。「なんですか?」と聞くとまあだまって見ておれと、ひと抱えほども刈り取るとそのまま家まで種明かしをしてくれなかった。家に着くと手際よくひとまとまりの綺麗なかたちに整えるとあたりを掃きだした。「ほら箒だ。これがいちばんいいんだよ、しなやかさでは他の何もこれにはかなわないよ」というから試しに手に取ってみるとほんとに優しいしなやかさで、でも十分にコシのあるなんとも気持ちのいい感触なのだ。気持ちよさだけでなく機能も抜群。ウチは建物まわりが砕石敷きで、その上に落ち葉や薪をチェーンソーで切った木くずが乗っかるので、掃除が結構大変なのだ。普通の箒だと砕石まで掃いてしまうし、熊手でもあまりうまくいかない。ところがこれで掃くと砕石はほとんど動かずに落ち葉やおが屑「だけ」が掃かれてゆくのだ。掃くだけで自動的に砕石以外の軽いものだけを掃き分けてくれるのだ。しかもこれがなんとも「美しい」のだ。佇まいというかそのまわりの柔らかい空気感というか。こうした土着の民具の造形美のようなものにはこれまでにも多くの文化人類学者や芸術家の慧眼が注がれてきたが、まさにこういう景色の総体として日本の美しい風景が作られてきたのだと感じた。このあたりはもの派の活動にも深く根ざしているであろうことを、今さらながら実感した。
T翁は「ほうきしば」と呼んでいたが、当然俗称で本当の名前は知らないらしい。「ほうきしば」でも「箒柴」でも検索にかからないからきっと極めてローカルな呼び名なのだ。刈りだした現場で一緒に見ていたのだが他にも似たような柴はあって、「これもですか?」と聞いてみたものは悉く違っていたので見分ける術をもう一度しっかりと教わらなくては。
師と仰ぐ人の前では謙虚になり、また、ある種の安堵感を覚えることがある、というのは多くの人にとって経験のあることだと思う。自分の知らないことをたくさん知っているというその事実に自然と心は啓かれ、「先達」という言葉の意味が体の緊張をほぐしてくれるのかもしれない。「ああ、ついていけばいいねの」と。心身共に心地のいい時間でした。