2011年8月26日金曜日

日本と中国における、もの派のプレゼンスについて考えてみた

恩師でもある彫刻家の小清水漸氏から来春アメリカでもの派の展覧会が開催されると聞いた。それに先立ち中国では数年前からもの派の評価が高まっていると聞く。先日の投稿でもの派について触れたあとで、ちょっと考えてみた。

 もの派の作品群を鑑賞するときに常に頭に浮かぶのは「環境」「表面」「配置」という言葉だ。
関根伸夫の「位相ー大地」ではまさに美術館や画廊ではない環境で、連続的に存在する大地の表面を掘り返し、同じボリュームで新たに配置しなおす、という構造になっている。ほかの作家の作品にもそれぞれのバランスと効果の多寡を異にしながらも、これらの要素を見出すことができるだろう。

知覚心理学者のジェームス・J・ギブソン(James Jerome Gibson 1904-1979)は生態幾何学[i]的に、環境を「サーフェスー表面」のレイアウトという単位で表現できると考えた。ものや空間の「切れ目」のあるユニットによって環境を捉えるのではなく、「サーフェス」のレイアウトで捉えることにより、環境には区切れがなくなると考えた。そして「サーフェス」のレイアウトのあり方と、その種々のレベルで起こる変化が我々に知覚を与えているという。つまり、「サーフェス」としての中身を伴ったものがいつ、どこで、どのように配置(レイアウト)されるかで刺激される知覚が変化するという考え方である。

「表面」はそのものの中身と、それを取り巻く環境との境界・界面といえる。そして表面には常に肌理がつきまとう。表面の変化はつまり肌理の変化であり、我々の知覚もこの肌理の変化によって喚起される。もの派の一連の作品においては、ある素材をほかの素材表面で覆ってしまうような表現がある一方で、同じ素材の表面の様相が連続的に変化している表現も見受けられるが、これらはいずれも表面・肌理の様相の在り方を、一般的秩序から逸脱した状態で提示している。

この「一般的秩序からの逸脱」はアートの原理的手法であるが、ここで喚起される知覚とはいったいどのようなものだろうか。既存の心理学的概念には「手続き型知識」という考え方がある。例えば、自転車に乗ることはできても、乗り方は言葉ではうまく説明できない、というようなことだ。同じことは芸術体験にも当てはめることができるだろう。ある作品が示唆するなにかを知覚したが、そのプロセスはうまく言葉では説明できない、しかし、確かに日常的なレベルとは異なるレベルで知覚したなにかを感じている、ということは多くが経験していることである。しかし、そうした個人の知覚レベルを超越した社会的意識の深層に作品の意味があるように思われる。

高度経済成長を背景として「大量生産」や「均質化する風景」、「土着文化の希薄化」とともに配置されたもの派という「表面」が、当時の急速に価値観が変化する環境において、一定の文化的抑止力として働いたことは、「効果」としては評価できるだろう。同じことが、現在急速に経済的発展をとげる中国においても適応できそうである。しかしながら、当時日本でもの派の活動が社会に与えた「意味」と、現在の中国で提示されるもの派の芸術的訴求力の喚起する「意味」には大きな違いがあるのではないだろうか。

奇跡的な戦後の復興による高度経済成長の中で、均質化する風景や急速に失われていく土着の文化に対する抑止力として効果をもった表現は、自らの暴走的な活動に対するいわば内省的態度の表れと言える。さまざまな外的要因に影響を受けながらも日本人が急速に日本を改造し、その性急さに日本人自らが警告を発したことに、もの派の意味の一つがあった。一方、中国では外資系画廊の経営戦略で肥大化した美術市場で本来美術がはたすべき役割が軽視され、経済的成功がより重要視される状況にある。2007年に北京で開催された「What is MONO-HA」展は美術の本来の役割を取り戻すために、輸入された批判的な視点として意味が見出されたようである。40年あまりの時間的差異を伴うが、同じもの派の表現が同じような社会環境の中で「配置」された、と言えるが、環境=国と時期が違うことで結果として見出される意味に変化が生じていることが興味深い。素材そのものに向かう意識やその意味を掘り下げようとする活動の、その他の表現との境界・界面をもの派という「表面」とするなら、いつ、どこで、どのように配置されるかで喚起される意味が変わってくるのである。

以上は心理学を背景に発達してきた生態幾何学的な発想をもとに、もの派のプレゼンスを日本と中国について考察してみたものであるが、彫刻を背景にしたもの派の作品も従来のユークリッド幾何学が示す世界観とは明らかに違う様相を提示しようとしており、出自を異にしながらも、特に表面の取り扱いに対するアプローチに対称性を見出せることが興味深い。さて、ポスト「超」成熟社会アメリカでは、もの派はどのように「配置」されるのだろうか、いまから楽しみだ。


[i] 生態幾何学(ecological geometry
ジェームス・J・ギブソンが『視知覚への生態学的アプローチ』でその可能性を提示した、動物の行為と相補的な環境の幾何学である。ユークリッド幾何学のような伝統的・抽象幾何学では点と線と平面で理解を構築している。それらの幾何学では、平面には表と裏の両面があり、線には幅がなく、点は場所・面積を持たず座標系を前提にした理論上の抽象的位置でしかない。だが、動物にとっての環境はそのような抽象的単位では構成されていない。伝統的な幾何学が平面と平面の境界を「線」とよぶのに対して、「サーフェス」と「サーフェス」との境界を「線/へり/エッジ」(edge)と定義する。生態幾何学とはサーフェスとエッジと媒質を単位とする幾何学である。(後藤武、佐々木正人、深沢直人『デザインの生態学』東京書籍、200442頁)

2011年8月23日火曜日

ほんとにほんと

八月ですよ、まだ。セミもじゃんじゃん鳴いてるし、カブトムシは飛んでくるし。でも最高気温22度って、たしかに毎晩大きな窓を鱗粉だらけにしてくれるでっかい蛾(オオミズアオ、我が家ではその優雅な佇まいから神様とよばれている?!http://tinyurl.com/3bup73e)もいないし夜だと20度は下回ってるし肌寒いけど、まさかストーブを焚くとは!いやほんと火でも熾さないと肌寒くて。全国的に特異日だったとはいえまさかのストーブ、でも実は嬉しいのです。常にリビングにデ〜んと構えているくせに夏は全くの無用の長物で、というよりも役割を取り上げられた寂しさが漂っていて、やっぱりストーブには火が入っているほうが空間がいきいきとするのです。とはいえ、つけたらつけたでこれまた暑くて窓を開ける始末、まったく微調整というものが利かないので合いの季節にはこうした「コタツでアイス」のような贅沢感というかムダ感というか、まあでも洗濯物がパリッと乾いて気持ちいいという福次効果は川沿いで湿気とカビとの戦いのこの立地ではとても嬉しいのでした。
とにかく、少しずつ秋の気配がそこかしこに感じられるようになってきました。

2011年8月14日日曜日

なんも暑ないで(イントネーションは関西弁で)

猛暑・酷暑のニュースを聞かない日はないが、ここ仙台の山端は最高気温でも30度を越えるかどうか、朝晩はひんやり、もちろんエアコンのお世話になることはない(ウチにはそもそも無いし)。地元の方は暑いとおっしゃるが、故郷京都のうだるような暑さが身に染みついている身体にとってはほんとに過ごしやすく心地よい夏だ。
車で数分も行くと蓮や水芭蕉の群生地やひっそりと、でも結構豪快な滝など、避暑には最高な場所だったりして、このあたりの避暑地パフォーマンスは結構高いと思う。先日も出入りの業者(山形出身)が、酷く暑くもなく雪害もない仙台が気候的にはいちばんいいと言っていたことも頷ける。確かに一般的な現代の郊外型の生活に比べればスーパーは遠いし、ゴミ出しは車で数分だし、水は井戸水ポンプが不調で時々断水するしで、色々と労を伴うとはいえ、死ぬほど不便かといえば、震災の時には水には困らなかったし(なんせ目の前が川、他所に給水さえできた)、薪ストーブだから暖も取れた(近所のおっちゃんたちがウチに毎晩集まって宴会してた@震災直後)し、田んぼや畑をやってるご近所からは食料が手に入ったしで、なにも非常時だけに限ったことではないけども、実はとても安定した暮らしなのだ。さらに近所にこうした散歩スポットもあるしで、なんも言うことないで、全く。
今日も暑かったけど少し空気も乾いてきてちょっと秋の空の気配も。お盆だけど。