2011年10月31日月曜日

芋煮というより朴葉焼き

ここ東北では秋になると老若男女こぞって「芋煮」なる鍋料理をなぜか川縁で催すのが恒例である。地域によってコンテンツと味付けが違うようだ。宮城は豚肉x味噌、山形は牛肉x醤油というようにおなじ芋煮といえども、味わってみれば全くの別物というものなのだが、「秋に」「仲間で」「里芋入れて」「川縁で」は共通項でこれらを満たしていれば芋煮しよう!という呼びかけが成立する。川縁で、ということならば清川でやらずにおくものか、誰よりも上流でやってやる、ということでみなさんといろいろ持ち寄ってワイワイ。近所で拾ってきた朴葉で朴葉焼きをやってみたところこれが絶品!紙鍋と原理は同じようだが、こちらは味噌の香りがしみこんで旨いことうまいこと。ちょっと焦げた味噌がまた熱燗にぴったりで。。
準備に先立って、川縁の南からの日当たりを遮っていた大きなコナラの木を2本ばかり思い切って伐採したところ、ピロティがちょうど日当たりが良くなってポカポカの清川でした。

2011年10月22日土曜日

。。。と、僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

学生の頃は大学で、というよりはバイト先の建築模型工房やアーティストのアシスタントなどの現場で学ぶことが余程多かった。そこで怒られドヤされ諭されてだんだんと仕事ができるようになってきた。気がつけばそんな風に気づかせてくれる人は居なくなり、当たり前のことながらいつのまにか逆の立場になっている、と、学生と過ごしていると思う。学生に対して話す時にいちいち「そうや、あのときあの人にこんな風に言われたなぁ」と思い出してしまう。理由があることも無いことも、とにかく言われるようにやれ、ということにはやっぱり後になってから意味が分かってくるということはあって、そういうことを諭す際には「そう教わったのだから仕方がない」というやや無責任な態度が実は効果的だったりする。伝聞の語法にはそれなりにチカラがあるのだ。そんな会話があった日には備忘にツイートしているのだが、今日はまとめて以下再録。みなさんも心当たりありませんか?

☆実際に制作している時間よりも、制作環境の整備や準備、清掃、整頓などに費やしている時間の方が圧倒的に長いことをわかってらっしゃらない学生さんが多い。また、その質が作品の品質に直結していることもお分かりでない。。。と、僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆「今しかできないこ」を「今、自分がやりたいこと」と混同する学生さんが多い。「今やるべきことかどうかわからないけど、とにかくやれ」と言われてやったことが、後からジワリと利いてくるのです。。。と僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆「見えないところの隅々まで気配りが行き届いて丁寧に仕上げてある」ことの見えない威力の凄さっていうものがあるんです。。。と僕も学生の頃(作品を買ってくれた故)灰谷健次郎さんから言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆モノを作る仕事をする上で最もイケないことは制作中に怪我をすること。程度の軽重に関わらずその後の仕事にムラができる、共同作業の時は全体のパフォーマ ンスを下げてしまう、から。なにより人を不安にさせてしまうから。。。と僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆「先生」は「先ず生きている」だけの存在です、「今」を語るあなた方にとっては恐るるに足らず。しかし先に生きてるだけに落とし穴のありかをたくさん知っているので未来を語るときには敬いなさい。。。。と僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆ペラりとしたイラレのデータが実物の手触りのある手ぬぐいになる、この物質感たるや!この実存感を先回りして想定しその終着点に向かって遡及的にデザインを積み上げていく、にはとにかく経験が必要なのです。。。と僕も学生の頃アナログ世代にこっぴどく言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆どうしたら作業がうまく進むかを考えることはともて重要だが、どうしたら失敗するかをそれ以上に吟味することに時間や経験を費やすことは、もの作りにとっては批評的かつ知性的で、それゆえ極めて創造的である。。。と僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆今日もまたもの作りの正しい教え方をしていない現場を目撃して残念。もの作りは「マナー」なのです。躾として正しいマナーを身につけないと決していいものは作れません。。。と僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆アカデミックな環境でフィジカルなもの作りを学生に体験させることはとても大切だとは思うが、やはり本職の現場で時間をかけてじっくりと「見て」「盗ん で」身につける経験とは本質的になにか違う感じがする。素人と玄人のシリアスさの乗り越えがたい壁がそこにはある。これは体験ベースの確かな感覚。だからダメということではなく、そこを入り口としてもの創り(「作り」ではなく)の深淵を知る契機になればいいのだが、DIY的楽しさで満足してるようでは「もの創り」とは言えない。。。と僕も学生のころ言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

2011年10月17日月曜日

秋・悲喜こもごも

葉擦れの音が乾いてきたな、と思ったらどんどんと紅葉が進んできた。「桐一葉 日当たりながら 落ちにけり(高浜虚子)」まさにそんな風情ではらはらと落ち葉も進む。日中の清々しさといったら、何を賭しても代え難い快感で開け放した窓からは藁焼きの焦げた甘い香りが漂ってきて、なんとも抜群の昼寝日和。。。といううららかな午後を打ち砕くかのようなカメムシの大群。異常発生のニュースも聞かないが、昼前からかさこそと飛び回り始め、日当たりのいいバルコニー(つまりもっとも居心地の良い場所)一面がカメムシで占拠されてしまった。一斗缶で枯れ草燃やして燻してみたり、木酢液を撒いてみたり、レモンやいろんなハーブを試してみるものの、ヤツらはかなり鈍感でこうした天然由来のものを忌避する様子もなく平気な顔。夕方にはどこかへ帰って?ゆくのだが、いちばん気持ちのいい時簡帯を楽しめないこの歯がゆさよ。俳句や短歌にはいろんな秋の虫が登場するが、秋の景色としておそらく大昔からいるに違いないのだから、ちょっとくらいカメムシを詠み込んだキレイな歌があってもよさそう(ちなみにカメムシは秋の季語)なのに、ほとんど見あたらないのは今も昔も嫌われ者なのか。いやはや。。。網戸が虫かごみたいになってる様子はおぞましくて写真ではお見せできませんのでご想像のままに。はあ。。