2012年1月31日火曜日

斧入れて 香におどろくや 冬木立

 今年はしきりに例年より寒いと聞くが、体感的にはそうでもないのでは?ということで気象庁の過去30年間の統計を見てみた。仙台の2011年1月の最高・最低気温はそれぞれ、9.1度/-7.0度で今年1月は10.4度/-7.0度、日平均気温も11年/12年が0.5度/0.6度、日最低平均気温も同じく-2.5度/-2.4度といずれも記録上は特段寒いとはいえないようだ。ただ、最深積雪は11年1月が5センチに対し、12年1月は7センチとやや積雪は多い。去年の方が根雪が深かったと思うのは、今年の方が積雪量は多いものの、今年は平均してやや気温が高いので積もっても根雪になる前に溶けているのではないか、ということで日照時間を見てみると一日平均では去年の方が0.1時間ほど長く、むむ?逆だな。いずれにしろ、巷間しきりに寒いと言われているほどには寒いとは感じない。年間の平均気温や降雪量の推移を見ると1月下旬から2月上旬にかけてもっとも寒い時期なので、今はそのまっただ中、あとは温かくなるばかりと思うと少しうれしくなってくる。
今シーズンは家人がひとり増えたので単純に薪の消費量が増えている。これを見越して昨春に多めに手配したものの、割り切れずに丸太のままで乾燥させていたものも多く、この時期になって毎週末薪割りをする羽目に。チェーンソーで玉切りにしていくと
木の香りがただよってきた。表面はすっかり乾燥して枯れているようでも、木の中では生命が活動しているのだ。時折なにかの幼虫も飛び出してきて驚いているのは人ばかりではないようだ。


2012年1月30日月曜日

秘境?


 目の前が清流というのはなかなかにエエもんで、川面に映える四季の移ろいを眺めているだけで一日を過ごせてしまいそう。冬は特に雪が降るともうとにかく美しいの一言で、毎朝真っ白に雪化粧した冬木立に囲まれた景色はほんとに息を呑むほどに美しい(前にも書いたかもしれないが)。少し上流に目を向けると川の浸食によって大きく削られた対岸からわき出した地下水が凍って、毎年まるでどっかの秘境のようなことになる。ちょうど北側斜面にもなっていて一旦この状態になるとちょっとやそっとでは溶けてなくならない。たいしたスケールではないものの、川面にまで達するつららの迫力と美しさにはささやかながら感動を覚える。。。覚えたあとは対岸からつららめがけて石を投げてのテキ屋ごっこが楽しいのだ!



2012年1月16日月曜日

要求が違う

仕事柄、モノの作られ方や仕上げの精度などがとても気になる。何を見てもまずは「どないして作るんやろ?」と考え、細部を見ては「う〜む、ようできてるな」と関心したり「けっこうテキトーやな」と挙げ足とっては嫌われたりと、とにかくそのモノが「よくできてる」かどうかがとても気になる。この「よく」というのがどういう定義かは自分でもはっきりしないし説明もできないけれど、陶芸家の家内が「エエもんつくりたい、ただ、それだけ」というときの「エエもん」がなんとなく指し示すある種の佇まいは確かにあると思う。それを醸し出すには細部の仕上げや仕舞に拘ることがなにより欠かせない。それは仕事のスケールによって許容される仕上げや仕舞の誤差の「範囲」のようなものがあるにせよ、できるだけ精密な方がいいに決まっている。

たとえば在来工法の木造住宅で木組みの梁や柱どうしが、寒暖や乾湿の影響で少し隙間が空く、ということは想定の範囲内で最小限に留めるように工夫されるがそれでも1ミリや2ミリくらいは隙間があくことはある。梁や柱のスケールに対して1〜2ミリというのは十分小さな数字でそれくらいなら仕上げの精度が悪い、という印象にはならないが、これが5ミリも空いてくるとちょっと大工さん、お願いしますよ。。ということになる。

これが建具、とりわけ指物になるとこの誤差は極めて小さくなってコンマ以下の世界に入ってくる。このあたりになると仕事に対する視線の注がれ方は建築というよりは工芸に限りなく近くなってくる。

ある現場であちこちと細部の仕上げについて指摘したところ、現場関係者から「工芸家の視点で大工の仕事を評価しないでくださいね、要求が少し違うので」と言われたことがある。工芸家の仕事の精度に比べれば大工のそれは雑なものだ、仕方がないのです、と聞こえた。特に悪意もなく大工の技術を擁護する気配も感じられなかったので、それはおそらく当人にとって当然の感覚だったのだろうと思う。大工の仕事は工芸ではない、と。

はたしてそうだろうか。

建築は総合的な「工芸」仕事だと思う。上述の例でも梁や柱から指物の建具まで、さらには壁や床やその他諸々の木造の建材を切り、整え、つなぎ、組み合わせるのはすべて手で行う仕事であり、それは目の前(遠くても腕を伸ばしきった距離の範囲で行われる)で展開するものであり、妨げるものがなければ焦点の合うギリギリまで近づいて見ることができる仕事である。例えばそれが梁と柱のつなぎ目であればそのつなぎ目に関して出来るだけ精度の高い仕事をする、その瞬間にはその梁や柱の大きさや建築全体のスケールは関係が無いはずだ。建築はモノの大きさの変化ではなく、梁や柱から指物の細部にいたるまでのなだらかな精度の連続で繋がっていくべきだと思う。

閑話休題。

NHKで尾形光琳の「紅白梅図」についてその技法の謎に迫る番組で、デザイナーの佐藤卓さんが「デザインが絵画を横切る大胆な構図」と解説していた。元禄文化最盛期において、絵画は屏風に描かれ、工芸品は茶室で供され、着物は日常生活のみならず常に舞踊と共に空間を彩ってきた。建築は芸術の舞台であったのだ。どこを見ても芸術で満たされた空間は当時の人たちにとって、現在のような「絵画」や「意匠」や「工芸」や「建築」といった「分野」や「技術」によって分節されて見えていただろうか。佐藤さんはそれを「大胆」というが、光琳が絵画と意匠に特別に境界を感じていなかったとしたら、それは大胆でもなんでもなく、光琳なりの自然な表現に過ぎなかったのではないだろうか。

小林秀雄が、「当時の人が信じたような方法で歴史は信じられなければならない」というように、我々は時として歴史を現在からの視点と価値観を通じて眺めがちである。小林秀雄はそれを強く戒めている。じゃあタイムスリップでもして過去にひとっ飛び?出来ない。ではどうするのか。感受性と想像力を総動員して当時の様々な状況を想像して自らをその景色に見いだし、その歴史を生き直すという態度が必要だと言う。それが歴史を知ることだと。そうであれば光琳の時代には「絵画」「意匠」という概念は明確に存在したのか?少なくとも「絵画」という概念はずっと時代が下って明治になってから西洋から輸入された概念である。光琳が自身の仕事を「絵画」という概念で理解していたはずはない。とすれば、紅白梅図においてそもそも「絵画」が「意匠」を横切る、というコンセプトはあり得ない。したがってそれが「大胆」ということもない。確かに「抽象的表現」と「具象的表現」を等価に盛り込んだ、ともいえるが、そもそも「抽象的表現」や「具象的表現」という意識や概念が当時あったかどうかさえ分からない。

現代の生活は様々な「分野」が複雑に絡み合って成り立っている。それぞれの「分野」に世間があり事情があり価値観がある。傍目にはすぐ隣の分野に見えても全く相容れない価値観が対峙しているということもしばしばあるだろう。それぞれの分野にはそれぞれの要求があり、それはその分野の技術や価値観の基準を決定的に定義している。現代生活はそうしたバラバラに定義された基準をなんとか切り貼りしてつなぎ合わせて作られているように思う。前述の現場で言えばデコボコでガタガタとした不連続な価値観のつながりとして見えてしまうのだ。要求が違う、すなわち価値観が違う、ということを当然として受け止めなければならないのだろうか。真に創造的である、ということはデコボコでガタガタな不連続な価値観の寄せ集めではなく、それ自体が麗しく美しい凛とした一本の線を描いているべきだと思う。光琳の紅白梅図でも、梅木や流れの表現の間にそうしたなだらかな価値観の変化の様が、それ自体が麗しく感じられるからこそ名品として残っているのでないだろうか。

今年は(今年も?)分野を超えて、なめらかで麗しい(まさに漆のような)つながりのなかで仕事をしていきたいと思う。そういうことが差し出せるような力を付けていきたいと思う。随分日数が経ってしまったけれども、一年の計としよう。