2013年2月28日木曜日

敵うわけもない


 前回の投稿で自然の造形について書いたが、こんな造形にはそもそも敵うわけもない。





2013年2月27日水曜日

造形

 不思議な言葉だ。とらえどころがないのに結構使っている。「形体をこしらえること」新村出編『広辞苑』(岩波書店、昭和30年)、「形のあるものを作り上げること」松村明『スーパー大辞林3.0』(三省堂2006-2008)など、いずれも省略されてはいるものの、明らかに主語は「人」だ。人が形を作る、その行為全般を指していると言っていい。現実的には「造形芸術」や「造形美術」などといった使われ方が多いので、芸術的な印象のある言葉だと思う。芸術の世界では表現をカテゴライズする際にも用いられ、その範疇には絵画、彫刻はもとより工芸や建築も含まれる。一方で英語では?と調べると「molding」とそっけない。moldingはむしろ「型に入れて作ること」すなわち鋳造のイメージが強い。「こしらえる」といった手をつかって直接物質を整えるというよりは、やや機械的に行う印象だ。「造形美術」となると「the formative art」となって、「絵画と彫刻をさし、建築や工芸は含まない」井上永幸・赤野一郎編『ウィズダム英和辞典』(三省堂2006-2008)となる。つまり英語では日本語でのイメージの「造形」を表現するこれといった1つの言葉がないのだ。日本語としても「造形をしています」というのは様々なものづくりの場で使われる便利な言葉で、自分自身もそうだが、「工芸家」というよりは「造形家」というほうがしっくりくる、というように意味をややぼんやりさせることが出来る。

一方で、「自然の造形」という表現もある。こちらはぼんやりどころか、かなり表現する中身ははっきりしている。まさに自然現象によって作り出される形のことだ。だれかの恣意ではなく主語は「自然」だ。人の営みとしての「造形」よりももっと「造形」という言葉の響きがしっくりくる感じがある。「自然の造形にはやっぱりかなわないな」というような言葉をよく耳にするが、どこかで「造形」というものが人のものではなく自然のものだという認識が人間の中にあるのかも知れない。そもそも「造形」は人ではなく自然の営みなのだ。それを引き寄せるために人は様々なものづくりを工夫するのかも知れない。影も形もこういう景色にはやっぱり「造形」ということばがしっくりくる。


2013年2月23日土曜日

春にして日露戦争を想う?

 立春とはよく言ったもので、気象庁の統計を見ても少なくとも過去数年は確かに2月4日を過ぎると、というより初旬前半あたりにかけて気温が下がり、立春を境に数日間でググッと気温が上がる傾向が伺える。今年は2日に12.9度、7日に9.8度と高く、間の6日にグッと低くて1.1度(いずれも最高気温・仙台市)と変位が激しかったのでより「春らしさ」を感じたようだ。しかしながら、今年はここまで(22日)全体的に気温は下降傾向で例年の緩やかな右肩上がりのグラフとは明かに趣を異にしている。明日も今年最大の寒波がやってくるとかで、「春遠からじ」ならぬ「春近からじ」といったところ。そんな季節の変化を知ってか知らずか、近所では白鳥の群れが鮮やかなV字編隊を組んで飛んでいたり、鷺がひょっこり現れたりと、大きな鳥を目にすることが多い。

鷺には夏鳥(日本で繁殖して冬は南方へ渡る)と冬鳥(冬に日本へ渡り越冬する)の二種がいるようだ。冬鳥は日本以北のより寒いところからやってくる訳なのでこのあたりの寒さくらいはむしろ暖かいのかも知れない。日露戦争で帝政ロシアが「凍らない港を求めて」南下したというエピソードを思い出した。冬の日本海などは寒さと厳しさで荒涼としたイメージがあるが、ロシアの人々にとっては凍らないくらい「暖かで豊かな」印象なのだという。同じ地域でも異なる立場で眺めると価値観は随分と違うものだ。この鷺はこの時期にいるので冬鳥だろうか。よく見ると夏によく見る少しグレーがかった鷺とは違うようにも見える。ロシアはもうさすがに簡単には南下して来られないが、鷺は今年もいつものようにやってきて帰って行く。季節にも国境にも価値観にも縛られない、渡り鳥はどこまでも自由なのだ。