2011年9月28日水曜日

サッカーとか自転車とか漆とか

僕はサッカーも自転車も、世間が騒がしくなるずっと前からやっていた。
サッカーは小学校3年生で始めた。野球のどうもあの官僚的な雰囲気に馴染めず自由を謳歌できそうなサッカーに自然に惹かれたのだと思う。当時はまだJリーグなんてもちろん影も形もなく、日本リーグで釜本の日本人としては規格外の活躍が窮屈に見えるくらいの地味なイメージのパッとしない世界だったように思う。いまや日本代表はワールドカップの常連となり、プロ野球とも人気を二分するほどに国民的スポーツとして定着した感があって、隔世の感ありだ。

自転車に興味を持ち始めたのは大学に入ったころか。マウンテンバイクなるものが存在し、なんとフロントサスペンション(ロックショックスとかいう、もう岩なんてへっちゃらな感じ)が装備され変速は指一本で電光石火のごとくパシパシ決まる(ラピッドファイヤーとかいう!変速したら火花でも出そう)そのメカメカしさに惹かれてあっという間に虜になった。当時はまだエコなんてことはだれも意に介さないバブル全盛時代、昔からのサイクリストはしっかりとした趣味の世界を作り上げていたが今のようにネコも杓子も自転車!なんて雰囲気ではなく、かなり渋い世界だったように思う。いまやエコを追い風に書店には自転車関係誌がズラリと並び、街には自転車店が林立し、サイクリストへの社会的な理解が深まったことはとても良いことだと思う一方、へっぴり腰のピスト乗りが跋扈し、歩道をカーボンロードが疾走していくという、機運の高まりの速さに交通マナーや環境が追いついていないゆがんだブームになっていることはやや残念ではある。

いずれもどこかしらマイナーな匂いがするからこそ、満たされない思いというものがあり、そこを埋めることに工夫する余地があることが僕を惹きつけていたように思う。今ほどサッカーシューズが豊富に無かったので足裏の感覚がしっくり来るようにスタッドの高さを自分で削ったりしてその効果を確かめることに、プレーそのものよりも熱くなったものだ。自転車の部品を軽量化すべくドリルチューン(強度に問題が無い範囲で穴を開けて軽量化すること)しまくっていた。いまや自転車のパーツは「超」精密機械となり、ユーザーの手出し出来る部分はほとんど無くなっている。なんでもかんでもメーカーもしくはプロショップでのメンテ推奨だ。専用特殊工具がないと何も出来ないというパーツも多い。ブラックボックス化しているのだ。

要するに僕の気分を支えてきたものは、体の運動ももちろんそうだが、むしろ「装備を工夫して手を掛けること」だったわけだ。人気が高まれば高まるほどメーカーは多様な商品を開発しどんどん便利に快適になり消費者は恩恵を受けるように見えるが、僕にとっては退屈になってゆくばかりなのだ。こうしたことは僕だけが感じていることではなく、クラシックカーやクラシックバイクのレストアに血道を上げる方々は皆一様に同じ思いなのだと思う。

僕が出会ってとにかくずっとこれまで付き合ってこられている漆にも、どこかそうした「おもしろいけど、とてもマイナー」かつ「工夫のしどころたくさん」という存在なのかもしれない。前者にはなんだかいいところを独り占めできてる優越感が、後者にはいろんな可能性がありそうな万能感が感じられて、二重の魅力がある。漆のことは本当の意味で良く知られていないので、もっともっと理解が進めばいいし、携わる人がもっと増えて欲しいと思う、なによりそうでないと産業として先行きが本当に先細りなのだが、一方で、僕にとってほどよくマイナーで、だからこそ魅力的な存在であってほしい、とわがままなことを思うのでした。

(写真はロンドン郊外で見かけたペニー・ファージングのイカしたおじさん)

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