2011年7月14日木曜日

すこしの事にも先達はあらまほしき事なり

写真は先日のブログのT翁が作ってくれた箒だ。一緒に山に入った際に山道を軽トラを運転していたと思ったら突然停まり、おもむろに藪に分け入って鉈でなにやらバッサバッサと刈りだした。「なんですか?」と聞くとまあだまって見ておれと、ひと抱えほども刈り取るとそのまま家まで種明かしをしてくれなかった。家に着くと手際よくひとまとまりの綺麗なかたちに整えるとあたりを掃きだした。「ほら箒だ。これがいちばんいいんだよ、しなやかさでは他の何もこれにはかなわないよ」というから試しに手に取ってみるとほんとに優しいしなやかさで、でも十分にコシのあるなんとも気持ちのいい感触なのだ。気持ちよさだけでなく機能も抜群。ウチは建物まわりが砕石敷きで、その上に落ち葉や薪をチェーンソーで切った木くずが乗っかるので、掃除が結構大変なのだ。普通の箒だと砕石まで掃いてしまうし、熊手でもあまりうまくいかない。ところがこれで掃くと砕石はほとんど動かずに落ち葉やおが屑「だけ」が掃かれてゆくのだ。掃くだけで自動的に砕石以外の軽いものだけを掃き分けてくれるのだ。しかもこれがなんとも「美しい」のだ。佇まいというかそのまわりの柔らかい空気感というか。こうした土着の民具の造形美のようなものにはこれまでにも多くの文化人類学者や芸術家の慧眼が注がれてきたが、まさにこういう景色の総体として日本の美しい風景が作られてきたのだと感じた。このあたりはもの派の活動にも深く根ざしているであろうことを、今さらながら実感した。
T翁は「ほうきしば」と呼んでいたが、当然俗称で本当の名前は知らないらしい。「ほうきしば」でも「箒柴」でも検索にかからないからきっと極めてローカルな呼び名なのだ。刈りだした現場で一緒に見ていたのだが他にも似たような柴はあって、「これもですか?」と聞いてみたものは悉く違っていたので見分ける術をもう一度しっかりと教わらなくては。
師と仰ぐ人の前では謙虚になり、また、ある種の安堵感を覚えることがある、というのは多くの人にとって経験のあることだと思う。自分の知らないことをたくさん知っているというその事実に自然と心は啓かれ、「先達」という言葉の意味が体の緊張をほぐしてくれるのかもしれない。「ああ、ついていけばいいねの」と。心身共に心地のいい時間でした。

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