2013年10月27日日曜日

敷居は低い方がいい その2

 先週に引き続き、今回は鎌倉で漆のワークショップをしてきた。FabLabKamakuraは移築してきた蔵をリノベーションしたデジタル工作機材を備えた市民工房だ。もの作りを通して地域や学びといった本当の意味での「生きるちから」を育てようと様々な取り組みを行っている。自分で考えても分からないことは物知りに聞く、手で出来ない時には道具を使う、ということは何百年も行われてきていることで、これが現代では物知りはインターネットになり、道具はデジタルファブリケーションになったのだから当然これらの機材は当たり前のように整備されている。だからといって、それだけでもの作りができるというものではない。同じ時間、場所、空気を共有して、手から手へと直接でなければ伝わらないことが圧倒的に多い。「漆は塗料なのでとにかく塗りましょう」といっても、じゃあ、漆の基本的な扱い方は?みたいな身体の使い方はやっぱり技術のある人の「身振り」「手つき」を見て学ぶのがてっとり早い。今回は漆と顔料を混ぜ合わせることから始めた。混色にはヘラを使うのだが、市販のナイロン系プラスチックだと「コシ」がなくて使いにくく、金属系は堅すぎてこれまたダメ。結局自分の手に合った硬さになるように切ったり削ったりできる木がいい、ということになる。今日はこのヘラ作りから。あとは自由に好きな色を作って好きなものに好きに塗りましょう!というワークショップ。

 口々に聞かれたのが、「こんなに簡単に始められるんですね」「意外に簡単」という感想、つまり漆に対する敷居の高さを先入観として持っていた、ということだ。確かに伝統工芸的な世界ではきっとこんなに簡単には漆を塗らせてもらえないだろうし、道具の仕立てももっと精密に指導されるはずだ。美術大学でさえそうだった。もちろん「伝統」を墨守することでしか守れない価値はあるから、それはそうであるべきだし、そこはきっちり垣根を作って高い敷居を設けておくべきだ。そしてそうした価値観のもとに生み出されるものに憧れる人はそういう道を選べばいいのだ。
 一方で、そういう価値観でなくても漆は漆として存在し、自由に使われるべきだ。使われる権利があるといっても良いかもしれない。伝統工芸の世界はどこか同調圧力のようなものが働き全体としての制度が力を持つとても日本的な仕組み(重ねて言うがそれは本当に必要なもの)だが、可能性の広がりを求めるならもっと民主化しても良いと思う。漆を使う人の数だけ可能性がある、つまり多様であることが種の保存には有利なのだから。技術の民主化とも呼べるデジタルファブリケーションの隆盛は素材の民主化とも呼応して、これからもっと新しい可能性を見せてくれると思う。

 勢い余って?電子回路に漆を塗りだした青年が「漆って絶縁ですか?」と聞くので、おそらく絶縁でしょうと答えたが真偽は不明だ。でもきちんと研究すれば何か新しい性質が発見できるかもしれない。3Dプリントしたヨーダにピンクの漆を塗ってキャーキャー騒ぐ主催者。ヨーダはさておき、3Dプリントに最適化された漆の調合が見つかるかも知れない。漆xシルクスクリーンは「枯れた」技術ではあるが、初めて触れた漆体験がシルクスクリーンだった革職人はこれからどんな世界を見せてくれるだろう?とにかく始めてみないことにはなにも分からない。そのためには敷居は低い方がいいに決まってる。



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