2011年11月2日水曜日

架橋


遊びにきていただく皆様からはいいところですね、と言われるのだが、実際に暮らしているととにかく川沿いの湿気が気になる。おまけに手が入っていない雑木林だらけなので、広葉樹がわっさわっさとのび放題でさらに日当たりが悪くていずれ伐るかと思っていた川縁のコナラを思い切って伐採した。樹高約20メートルもあったのでドド〜ンと向こう岸まで橋が架かる格好に。おかげで南の空が随分と開けて日の光がサンサンと注ぐようになって、紅葉もうれしそう。
川と言っても脛あたりまでの深さなので橋なんか無くても長靴を履けば対岸なんてすぐなのだが、「架橋」されるということには独特の感慨がある。「をを〜!」みたいな。同僚のK原さんとも共感。これぞ土木工事の醍醐味か、というのは大げさながら、なんだろうこの感慨。さておき、簡単に対岸に行けるようになったのでさっそく焚き付け用の柴刈りに。ポキポキと小気味よく手折ってあっという間にひと山できあがり。。ん?待てよ、簡単に行けるってことは来れるってことだな。。あれ?熊とかも渡ってくるのか。。
まあええわ、気持ちの良い朝のお茶にしよう。


2011年10月31日月曜日

芋煮というより朴葉焼き

ここ東北では秋になると老若男女こぞって「芋煮」なる鍋料理をなぜか川縁で催すのが恒例である。地域によってコンテンツと味付けが違うようだ。宮城は豚肉x味噌、山形は牛肉x醤油というようにおなじ芋煮といえども、味わってみれば全くの別物というものなのだが、「秋に」「仲間で」「里芋入れて」「川縁で」は共通項でこれらを満たしていれば芋煮しよう!という呼びかけが成立する。川縁で、ということならば清川でやらずにおくものか、誰よりも上流でやってやる、ということでみなさんといろいろ持ち寄ってワイワイ。近所で拾ってきた朴葉で朴葉焼きをやってみたところこれが絶品!紙鍋と原理は同じようだが、こちらは味噌の香りがしみこんで旨いことうまいこと。ちょっと焦げた味噌がまた熱燗にぴったりで。。
準備に先立って、川縁の南からの日当たりを遮っていた大きなコナラの木を2本ばかり思い切って伐採したところ、ピロティがちょうど日当たりが良くなってポカポカの清川でした。

2011年10月22日土曜日

。。。と、僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

学生の頃は大学で、というよりはバイト先の建築模型工房やアーティストのアシスタントなどの現場で学ぶことが余程多かった。そこで怒られドヤされ諭されてだんだんと仕事ができるようになってきた。気がつけばそんな風に気づかせてくれる人は居なくなり、当たり前のことながらいつのまにか逆の立場になっている、と、学生と過ごしていると思う。学生に対して話す時にいちいち「そうや、あのときあの人にこんな風に言われたなぁ」と思い出してしまう。理由があることも無いことも、とにかく言われるようにやれ、ということにはやっぱり後になってから意味が分かってくるということはあって、そういうことを諭す際には「そう教わったのだから仕方がない」というやや無責任な態度が実は効果的だったりする。伝聞の語法にはそれなりにチカラがあるのだ。そんな会話があった日には備忘にツイートしているのだが、今日はまとめて以下再録。みなさんも心当たりありませんか?

☆実際に制作している時間よりも、制作環境の整備や準備、清掃、整頓などに費やしている時間の方が圧倒的に長いことをわかってらっしゃらない学生さんが多い。また、その質が作品の品質に直結していることもお分かりでない。。。と、僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆「今しかできないこ」を「今、自分がやりたいこと」と混同する学生さんが多い。「今やるべきことかどうかわからないけど、とにかくやれ」と言われてやったことが、後からジワリと利いてくるのです。。。と僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆「見えないところの隅々まで気配りが行き届いて丁寧に仕上げてある」ことの見えない威力の凄さっていうものがあるんです。。。と僕も学生の頃(作品を買ってくれた故)灰谷健次郎さんから言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆モノを作る仕事をする上で最もイケないことは制作中に怪我をすること。程度の軽重に関わらずその後の仕事にムラができる、共同作業の時は全体のパフォーマ ンスを下げてしまう、から。なにより人を不安にさせてしまうから。。。と僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆「先生」は「先ず生きている」だけの存在です、「今」を語るあなた方にとっては恐るるに足らず。しかし先に生きてるだけに落とし穴のありかをたくさん知っているので未来を語るときには敬いなさい。。。。と僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆ペラりとしたイラレのデータが実物の手触りのある手ぬぐいになる、この物質感たるや!この実存感を先回りして想定しその終着点に向かって遡及的にデザインを積み上げていく、にはとにかく経験が必要なのです。。。と僕も学生の頃アナログ世代にこっぴどく言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆どうしたら作業がうまく進むかを考えることはともて重要だが、どうしたら失敗するかをそれ以上に吟味することに時間や経験を費やすことは、もの作りにとっては批評的かつ知性的で、それゆえ極めて創造的である。。。と僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆今日もまたもの作りの正しい教え方をしていない現場を目撃して残念。もの作りは「マナー」なのです。躾として正しいマナーを身につけないと決していいものは作れません。。。と僕も学生の頃言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

☆アカデミックな環境でフィジカルなもの作りを学生に体験させることはとても大切だとは思うが、やはり本職の現場で時間をかけてじっくりと「見て」「盗ん で」身につける経験とは本質的になにか違う感じがする。素人と玄人のシリアスさの乗り越えがたい壁がそこにはある。これは体験ベースの確かな感覚。だからダメということではなく、そこを入り口としてもの創り(「作り」ではなく)の深淵を知る契機になればいいのだが、DIY的楽しさで満足してるようでは「もの創り」とは言えない。。。と僕も学生のころ言われたので今みなさんにお伝えしておきます。

2011年10月17日月曜日

秋・悲喜こもごも

葉擦れの音が乾いてきたな、と思ったらどんどんと紅葉が進んできた。「桐一葉 日当たりながら 落ちにけり(高浜虚子)」まさにそんな風情ではらはらと落ち葉も進む。日中の清々しさといったら、何を賭しても代え難い快感で開け放した窓からは藁焼きの焦げた甘い香りが漂ってきて、なんとも抜群の昼寝日和。。。といううららかな午後を打ち砕くかのようなカメムシの大群。異常発生のニュースも聞かないが、昼前からかさこそと飛び回り始め、日当たりのいいバルコニー(つまりもっとも居心地の良い場所)一面がカメムシで占拠されてしまった。一斗缶で枯れ草燃やして燻してみたり、木酢液を撒いてみたり、レモンやいろんなハーブを試してみるものの、ヤツらはかなり鈍感でこうした天然由来のものを忌避する様子もなく平気な顔。夕方にはどこかへ帰って?ゆくのだが、いちばん気持ちのいい時簡帯を楽しめないこの歯がゆさよ。俳句や短歌にはいろんな秋の虫が登場するが、秋の景色としておそらく大昔からいるに違いないのだから、ちょっとくらいカメムシを詠み込んだキレイな歌があってもよさそう(ちなみにカメムシは秋の季語)なのに、ほとんど見あたらないのは今も昔も嫌われ者なのか。いやはや。。。網戸が虫かごみたいになってる様子はおぞましくて写真ではお見せできませんのでご想像のままに。はあ。。

2011年9月28日水曜日

サッカーとか自転車とか漆とか

僕はサッカーも自転車も、世間が騒がしくなるずっと前からやっていた。
サッカーは小学校3年生で始めた。野球のどうもあの官僚的な雰囲気に馴染めず自由を謳歌できそうなサッカーに自然に惹かれたのだと思う。当時はまだJリーグなんてもちろん影も形もなく、日本リーグで釜本の日本人としては規格外の活躍が窮屈に見えるくらいの地味なイメージのパッとしない世界だったように思う。いまや日本代表はワールドカップの常連となり、プロ野球とも人気を二分するほどに国民的スポーツとして定着した感があって、隔世の感ありだ。

自転車に興味を持ち始めたのは大学に入ったころか。マウンテンバイクなるものが存在し、なんとフロントサスペンション(ロックショックスとかいう、もう岩なんてへっちゃらな感じ)が装備され変速は指一本で電光石火のごとくパシパシ決まる(ラピッドファイヤーとかいう!変速したら火花でも出そう)そのメカメカしさに惹かれてあっという間に虜になった。当時はまだエコなんてことはだれも意に介さないバブル全盛時代、昔からのサイクリストはしっかりとした趣味の世界を作り上げていたが今のようにネコも杓子も自転車!なんて雰囲気ではなく、かなり渋い世界だったように思う。いまやエコを追い風に書店には自転車関係誌がズラリと並び、街には自転車店が林立し、サイクリストへの社会的な理解が深まったことはとても良いことだと思う一方、へっぴり腰のピスト乗りが跋扈し、歩道をカーボンロードが疾走していくという、機運の高まりの速さに交通マナーや環境が追いついていないゆがんだブームになっていることはやや残念ではある。

いずれもどこかしらマイナーな匂いがするからこそ、満たされない思いというものがあり、そこを埋めることに工夫する余地があることが僕を惹きつけていたように思う。今ほどサッカーシューズが豊富に無かったので足裏の感覚がしっくり来るようにスタッドの高さを自分で削ったりしてその効果を確かめることに、プレーそのものよりも熱くなったものだ。自転車の部品を軽量化すべくドリルチューン(強度に問題が無い範囲で穴を開けて軽量化すること)しまくっていた。いまや自転車のパーツは「超」精密機械となり、ユーザーの手出し出来る部分はほとんど無くなっている。なんでもかんでもメーカーもしくはプロショップでのメンテ推奨だ。専用特殊工具がないと何も出来ないというパーツも多い。ブラックボックス化しているのだ。

要するに僕の気分を支えてきたものは、体の運動ももちろんそうだが、むしろ「装備を工夫して手を掛けること」だったわけだ。人気が高まれば高まるほどメーカーは多様な商品を開発しどんどん便利に快適になり消費者は恩恵を受けるように見えるが、僕にとっては退屈になってゆくばかりなのだ。こうしたことは僕だけが感じていることではなく、クラシックカーやクラシックバイクのレストアに血道を上げる方々は皆一様に同じ思いなのだと思う。

僕が出会ってとにかくずっとこれまで付き合ってこられている漆にも、どこかそうした「おもしろいけど、とてもマイナー」かつ「工夫のしどころたくさん」という存在なのかもしれない。前者にはなんだかいいところを独り占めできてる優越感が、後者にはいろんな可能性がありそうな万能感が感じられて、二重の魅力がある。漆のことは本当の意味で良く知られていないので、もっともっと理解が進めばいいし、携わる人がもっと増えて欲しいと思う、なによりそうでないと産業として先行きが本当に先細りなのだが、一方で、僕にとってほどよくマイナーで、だからこそ魅力的な存在であってほしい、とわがままなことを思うのでした。

(写真はロンドン郊外で見かけたペニー・ファージングのイカしたおじさん)

2011年9月25日日曜日

藤川勇造と乾漆

近代日本を代表する彫刻家、藤川勇造は高松の伝統工芸である香川漆器の祖、玉楮象谷の孫にあたり、東京美術学校(現、東京藝術大学)で彫刻を学ぶ以前には高松の名門藤川家で漆芸の技法について一通り習得を終えていた。美術学校へ入学したあとも彫刻の勉強の傍ら漆芸にもいそしみ、漆硯箱を作って当時の漆工コンペで銀賞を獲得するなど、高度な漆芸を身につけていた。卒業後、画家の安井曾太郎とともにパリへ渡り、オーギュスト・ロダンの最後の弟子として西洋彫刻を学んだ。ロダンは「日本には乾漆塑像のような優れた彫刻があるのに、なぜ西洋彫刻を学ばねばならないのか」と疑問を投げかけていたという。藤川は渡仏中にロダンから受けた唯一の賞賛は乾漆製のうさぎの作品であったと回想している。その作品を見たロダンは「彫刻の内部から膨らむようなやわらかい表現は日本人の感性によって生み出すことができる」と賛美したという。

乾漆とは麻布などを漆でかためて造形を行う技法である。現代では造形手法上、もっとも近い概念の素材はFRPである。FRPが合成繊維を合成樹脂で固めるのに対して、乾漆は天然繊維を天然樹脂たる漆で固めるという点において乾漆はFRPに先立つことはるか千年以上も前に確立された造形技法である。現代生活においてはごく一部の漆芸製品においてのみ細々と継承されているに過ぎなく、一般的な知識・理解は皆無と言って良い。数年前に話題になった国宝興福寺阿修羅像は奈良時代を代表する乾漆仏の傑作で、当時でも貴重とされた漆を使って彫刻がつくられており、日本の彫刻技術の根源的な礎のひとつであることは間違いない。ロダンが乾漆仏についてどれほどの知識を持ち合わせていたかは定かではないが、日本の優れた彫刻が乾漆であるということ、また逆に乾漆であることで日本の彫刻の個性が発露した、と考えていたとすれば慧眼というほかない。

乾漆は粘土や石膏で型をつくり、その表面に麻布を漆で積層して形態を生成し、最終的には型をはずす、あるいは抜き取るため、造形自体が空洞に近い造形になることが多い。ロダンの言う「内部から膨らむような」というのはまさに言い得て妙な表現であり、乾漆の本質をうまくあらわしていると思う。また、内部から膨らむような構造の場合自身を支えるだけでなく「構造」としての強度が高く積層の構成によってはFRPに比肩する可能性もあり、一部の建築構造家などが注目しているなど、現代にも十分蘇る可能性のある素材・技法なのです。

来る10月1日から京都市立芸術大学のギャラリー@kcuaで開催される文化庁メディア芸術祭京都展《パラレルワールド》関連企画《共創のかたち〜デジタルファブリケーション時代の創造力》には、乾漆で制作された椅子の実作が展示されます。乾漆のみで人体を支えることを実証する試みです。お近くの方は是非ご覧になって、乾漆を体験してみて下さい。ロダンの気持ちが分かるかも?
写真は拙作:「捨てられないかたち」

2011年9月23日金曜日

秋の収穫

台風一過ですっかり快晴の朝、そうとう風に揺さぶられたようであちこちに木の枝が落ちている。中には梢というよりはごっつい枝ごと2メートルあまりもぼっきりと折れたのもあって敷地はやや騒然とした様子。運良くそのまま地面に落ちたようだけど、運悪く屋根を直撃していたら‥と思うと、高いところの枝はそれなりに剪定したいところ、とはいえ10-15mもあると簡単にはいかず悩ましいところ。ともあれ、こうして自然の力で「剪定」されていくおかげで薪ストーブの焚きつけに使ういわゆる「柴」には困らない。おじいさんは柴刈りに〜の柴。5月に切り倒したコナラの枝も野ざらしにしていたが、これも良い具合にカラカラに乾いていて、まとめて焚きつけを作った。「作った」というと大げさ、ポキポキと折るだけ。これが焚きつけには最高なのです。子供の頃はよく分かってなかったけど、おじいさんはこれを拾いに行っていたのです。
枝と一緒にクリ拾い。こちらもちょうど台風でバサバサと落ちたところのようで、敷地を一回りしただけでこんなに。をを、今夜はクリご飯か!クリは拾うタイミングがあって、地面に落ちて1-2日も経つと湿気を吸ってしまうのでできるだけ落ちたところを拾うのが良いようだ。去年は少し日数が経ったものしか拾えなくてあまり具合が良くなかったので、今年はいいタイミングで見つけられてラッキーだった。
拾ったものだけで暖が取れ、季節の風味が楽しめる、そんな季節がやってきました。